2024/03/02 18:37
[ English summary below]
秩父と絹
秩父地方では古くから養蚕が盛んであった。稲作には向かない土地の秩父の農民たちは畑で麦や野菜、桑を栽培し、その傍らで蚕を飼い糸や織物を作っていた。絹市にはそういった生糸や生絹が多く集まり、江戸をはじめ全国から絹商人たちが買い付けに訪れた。明治の頃まで現金収入の手段は専ら養蚕で、絹が秩父の経済を支えていた。
明治期に入ると毛織物や綿布類が輸入されるようになり、織物業が停滞し始めた。その危機を打破すべく、秩父各地で素材や技法、織機の改良が進み、大正末期には動力織機が導入される。明治20年以降には輸入した化学染料による色鮮やかな染色が可能となり、また明治41年以降、解し捺染の技法によって織物のデザイン性が向上。秩父の絹織物は秩父銘仙と名を改め、大正末期から昭和初期にかけて日本全国で一世を風靡した。
文明開化を経て
明治維新が興り近代国家を目指した政府は、人々の生活様式をも変えていった。近代化と西洋化とを安直に同視した、いささか強引に進められた変革ともいえる。しかし大正時代に入ると、人々は心地よい和洋折衷の生活様式を模索し、大衆文化が育まれた。
政府が推し進めた形ではあったが、生活様式の変革は人々の思想の変化を顕著に表現する。
明治以降、日本に民主主義的な思想が広まり、人々は自由と平等を求めはじめた。そうした中で女性たちは社会進出を果たす。封建的な思想から解放された女性は、結いあげていた髪を束ね、または短く刈りあげた。そして女学生として学び、職業婦人として社会で働き、また活動家として女性解放運動に尽力した。秩父銘仙は、そのような個性の尊重と自由を求めた女性たちを彩った。
チャイナドレスの誕生
一方、大陸の女性たちは『旗袍(チャイナドレス※) 』を身に纏い始める。基本的な中国服飾は平面裁断で、ワンピース型を上流階級の男性エリート、ツーピース型を労働者階級の庶民や女性、子供が身に着けていた。衣服の形に男女差はなく刺繍や装飾によって身分や年齢、性別を表現する。漢人だけでなく蒙古人、満州人など広く大陸で着用されていた。
清朝は満州人による支配ではあったものの、行政機関には満州人の他、蒙古人や漢人も組み込まれ、彼らは旗人と呼ばれた。清朝の貴族である。旗人の家族の女性はワンピース型を身に着けたのが旗袍の原型とされている。
※チャイナドレスは和製英語である。中国語では旗袍(チーパオ)と言う。
自由と権利を求めた女性達
上流階級の男性が身に着けていたワンピース型の衣服であったが、清代末期には『長衫』として一般男性にも定着し、のちに進歩的な女性が着用しはじめた。彼女たちは男女平等、女性の解放をその装いで訴えたのだった。それまで封建的な社会制度の下、女性たちは胸を平たく、足を小さく縛り、またゆったりとした衣服で全身を覆い隠して生きていた。その姿はさながら家の地位を象徴する服のためのハンガーで、個としての存在ではなかった。(謝 2020, p.98)
束胸や纏足から解放された女性たちは、長衫を西洋の立体裁断技術によって旗袍へと改良し、本来女性の身体がもつ曲線美を表現するようになる。こうした新しい装いは、モダンガールや職業女性たちの間で流行した。しかし旗袍は単に男性化、西洋化した衣服ではない。
旗袍の露出とは、西洋でいう肌の露出とは違うものである。中庸の思想である性的な魅力もあるがそれをあらわにしない慎みもある。また、保守的なデザインの中にセクシーな細部を作る。この「隠」と「秀」のバランスに隠された旗袍の「情趣」は、西洋の服にはない魅力であり、民国旗袍が実現した最も斬新な創造である。(謝 2020, p.98)
自然で健康的な女性像が広がり、旗袍は1929年に女性の礼服として採用される。旗袍は新時代の女性のシンボルとなった。
元始、女性は実に太陽であった。
自由と平等を求めて民衆は立ち上がり、次第に女性たちも自由や権利を主張し始める。自由を渇望し躍動する新時代の女性を彩った秩父銘仙、美しく包んだ旗袍は、女性に自分が着たい物を自由に選び表現する機会を支えた。
参考文献
謝黎 (2020). 『チャイナドレス大全 文化・歴史・思想』. 青弓社
日本理容美容教育センター (2020).『文化論』. 日本理容美容教育センター
千嶋壽監修 (2007). 『やさしいみんなの秩父学』. さきたま出版会
清水武甲監修 (1984).『秩父学入門』. さきたま双書
秩父銘仙製造:秩父織塾工房横山
縫製:エブリン
Chichibu-Meisen and Qipao
Chichibu-Meisen is a traditional silk fabric from Saitama prefecture, Japan. It is woven with dyed threads, resulting in a reversible fabric.
The reason why sericulture has been popular in Chichibu for a long time is that the land has not been suitable for rice cultivation.
During the Meiji period, the Chichibu people worked on improving cloth materials, weaving techniques, and looms. They have become able to dye vividly, and developed a new technique “Hogushi-Nassen(ほぐし捺染)” . The technological innovation have improved the design of textiles dramatically.
The Chichibu silk fabric has been renamed “Chichibu-Meisen" became very popular from the Taisho period to the early Showa period.
After Edo period, the new government of Japan has tried to change people’s life to Western style. Then the people found comfortable Japanese-Western lifestyle in Taisho period. Changing lifestyle represents changing people’s thought.
At that time, democratic ideas has been spread in Japan, and people have wanted freedom and equality.Under the movement, women started to social advancement. Chichibu-Meisen colored the women who hope freedom and respect for their individuality.
On the other hand, Women living China have begun wearing " Qipao (旗袍)". Basic Chinese clothes are flat. Traditionally the upper class men elite ware one-piece type, and the common class men, women, and children ware two-piece type.
The fashion style has been used not only by Han Chinese but also by various ethnic groups living in China. Qing dynasty was governed by Manchurians but there were also aristocrats from Mongolians or Han people. The aristocratic women wore Chinese clothes which were one-piece type. It is the prototype of Qipao.
At the end of the Qing dynasty, the One-piece type Chinese clothes which had been worn only by upper class men, became popular among general men. Then, progressive women also started wearing it. They appealed for women's rights or women's liberation using own fashion.
In feudal times, Chinese women tied own breasts and legs, and her whole body was covered with clothes which showed the status of her family.
The liberated women from the old customs improved the one-piece type Chinese clothes into Qipao by Western cutting method. This new fashion, which expresses the natural curvaceous beauty of the female body, has been popular among modern girls and working women, and Qipao has become a symbol of women in the new generation.
The women who have lived in the new generation to desire freedom and equality. Chichibu-Meisen and Qipao supported the opportunity for women to choose own clothes to wear and express themselves.
